「浜の湯」から直線距離で半径1km以内の寺院を探す/距離が近い順 (1~2施設)
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- JR上諏訪駅から東北の方角へ、徒歩で20分ぐらい登っていったところにあるお寺です。 諏訪は湖の花火と温泉の町として有名ですが、元々は、高島城というお城があった城下町です。 江戸時代の初めに、高島藩主の諏訪氏によって計画され、創建されることになったそうです。 名前の由来は、諏訪の地域が温泉が湧くところだったため、その守り仏として、かつて薬師如来を祀っていた場所を広げてお寺を建てたことだそうです。 現代になり、一大温泉地として賑わいをみせるようになったのは、このお寺の御利益かもしれないと思います。 ところで、この温泉寺は臨済宗のお寺ですが、元々藩主の諏訪氏は、高島城の近くに菩提寺を計画していたとのことです。 (2代から8代までの藩主の、お墓のあるところになっています。) そのため、当時の温泉寺は政治的な面が強いお寺だったのではないでしょうか。 後世になり、明治期初期の温泉寺の火災や、高島城の廃城の影響で、高島城より貴重な構造物も移されています。 さらに、同様に明治初期の神仏分離令の影響で、諏訪大社の上社からはご神体だったお鉄塔も移されています。 また、今では観光の名所にもなっており、春には樹齢が400年近いしだれ桜の花を見ることができ、秋には庭園内の紅葉を楽しむことができます。 ところで、温泉寺の墓地の一角に和泉式部のお墓として、紹介されているところがあります。 和泉式部といえば、日本史の教科書にも載っていますが、平安時代の歌人とされている方です。 地域の言い伝えでは、和泉式部は下諏訪の出身とされ、和泉式部の伝説もあります。 それは、まとめると両親を亡くした女の子が周囲のいじめに遭っていたものの、日頃の信心深い行いのおかげで、お地蔵様のご利益があり、その後幸せに成長し、美人として有名になったおかげで、京へ召されて和泉式部になったという「伝説」です。 ここまでの話を聞くと、にわかには信じがたいですが、中世のロマンのある物語だと思いました。
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- JR上諏訪駅から東北の方角へ、徒歩で20分ぐらい登っていったところにあるお寺です。 諏訪は湖の花火と温泉の町として有名ですが、元々は、高島城というお城があった城下町です。 江戸時代の初めに、高島藩主の諏訪氏によって計画され、創建されることになったそうです。 名前の由来は、諏訪の地域が温泉が湧くところだったため、その守り仏として、かつて薬師如来を祀っていた場所を広げてお寺を建てたことだそうです。 現代になり、一大温泉地として賑わいをみせるようになったのは、このお寺の御利益かもしれないと思います。 ところで、この温泉寺は臨済宗のお寺ですが、元々藩主の諏訪氏は、高島城の近くに菩提寺を計画していたとのことです。 (2代から8代までの藩主の、お墓のあるところになっています。) そのため、当時の温泉寺は政治的な面が強いお寺だったのではないでしょうか。 後世になり、明治期初期の温泉寺の火災や、高島城の廃城の影響で、高島城より貴重な構造物も移されています。 さらに、同様に明治初期の神仏分離令の影響で、諏訪大社の上社からはご神体だったお鉄塔も移されています。 また、今では観光の名所にもなっており、春には樹齢が400年近いしだれ桜の花を見ることができ、秋には庭園内の紅葉を楽しむことができます。 ところで、温泉寺の墓地の一角に和泉式部のお墓として、紹介されているところがあります。 和泉式部といえば、日本史の教科書にも載っていますが、平安時代の歌人とされている方です。 地域の言い伝えでは、和泉式部は下諏訪の出身とされ、和泉式部の伝説もあります。 それは、まとめると両親を亡くした女の子が周囲のいじめに遭っていたものの、日頃の信心深い行いのおかげで、お地蔵様のご利益があり、その後幸せに成長し、美人として有名になったおかげで、京へ召されて和泉式部になったという「伝説」です。 ここまでの話を聞くと、にわかには信じがたいですが、中世のロマンのある物語だと思いました。
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